なぜ日本人がほとんど知らない「幻の国立公園」なのか?
フランスアルプスには有名なモンブランやシャモニーがありますが、実はその陰に隠れた真の宝石があります。それがエクラン国立公園です。パリから南東に約600キロ、イゼール県とオート=アルプ県にまたがるこの国立公園は、フランス本土最高峰のバール・デ・エクランを抱えながら、なぜか日本のガイドブックにはほとんど登場しません。
実際に足を踏み入れてみると、その理由がよくわかりました。ここは観光地として「整備されすぎていない」のです。むしろそれこそが、この公園の最大の魅力なのかもしれません。
バール・デ・エクラン(4102m)って本当にフランス最高峰?
「フランス最高峰はモンブランでしょ?」と思った方、実はそう単純ではありません。モンブラン山頂の国境線は複雑で、厳密にはフランス領とイタリア領の境界が曖昧です。一方、バール・デ・エクラン(4102m)は完全にフランス領内にあり、「フランス本土最高峰」として地元では誇りを持って語られています。
この山を間近で見ると、モンブランとはまったく違う荒々しさに圧倒されます。グルノーブルから車で約2時間のラ・ベラルドという小さな村が登山基地となりますが、ここまでの道のりがすでに冒険です。くねくねとした山道を登っていくと、突然視界が開けて巨大な氷河と岩壁が目の前に現れる瞬間は、まさに息を呑むとしか言いようがありません。
実は「登山しない人」にこそおすすめな理由
「4000m級の山なんて登山家の世界でしょ」と思うかもしれませんが、実はエクラン国立公園の真価はハイキングトレイルの豊富さにあります。公園内には740キロものトレイルが整備されており、半日程度の軽いハイキングから本格的なトレッキングまで、あらゆるレベルに対応しています。
特におすすめなのが、ラ・ベラルドからシャレ・ドゥ・ラ・セルスまでの約3時間のハイキングコースです。標高差約500mという程よい運動量で、途中には高山植物が咲き乱れる草原や、氷河から流れ出る青い川など、まさに「アルプスの少女ハイジ」の世界が広がります。入園料は無料で、6月から9月までがベストシーズンです。
地元民が教えてくれた「マルモットとの正しい付き合い方」
トレイルを歩いていると、必ずと言っていいほど出会うのがマルモットです。日本のリスより少し大きく、まん丸な体型が愛らしいこの動物は、エクラン国立公園のマスコット的存在。しかし、地元のガイドさんに聞いた話では、観光客の多くが間違った接し方をしているそうです。
「マルモットは人間を見ても逃げないから、つい近づきたくなるでしょう?でも絶対に餌をあげちゃダメ。彼らの消化器官は高山植物専用にできているから、人間の食べ物は毒になるんです」とガイドのピエールさんは真剣な表情で教えてくれました。正しい楽しみ方は、10メートル以上離れた場所からじっくり観察すること。運が良ければ、家族で戯れる微笑ましい光景を目撃できます。
「フランス料理」の概念が崩れ去ったラ・グラーヴでの食事体験
エクラン国立公園の北側に位置するラ・グラーヴという村での食事体験は、今でも忘れられません。人口500人程度の小さな村ですが、ここには「レストラン・ラ・プレトリ」という家族経営の食堂があります。
メニューを見て驚いたのは、典型的な「フランス料理」がほとんどないこと。代わりにあるのはタルティフレット(ジャガイモとチーズのグラタン)、ラクレット(溶かしたチーズをジャガイモにかける料理)など、アルプス地方の郷土料理ばかりです。「ここはサヴォワ地方の料理が中心なんですよ。パリの料理とはまったく違います」とマダムが誇らしげに説明してくれました。
1食20ユーロ程度とリーズナブルながら、量は驚くほどたっぷり。登山やハイキングで消耗した体には、この素朴で温かい料理が何よりのご馳走でした。
天気予報が当たらない?アルプス特有の気象の罠
エクラン国立公園を訪れる際に最も注意すべきは天気です。麓の村では晴れていても、標高2000mを超えるとまったく違う気象条件になることがあります。実際、私が訪れた7月のある日、朝はTシャツ1枚で歩けるほど暖かかったのに、午後2時頃から急に雲が湧き、気温が10度以上下がりました。
地元の山小屋の管理人によると、「アルプスの天気予報は6時間先までしか信用してはいけない」とのこと。防寒着、雨具、予備の食料は必須です。また、携帯電話の電波が届かないエリアも多いため、事前にルートを詳しく調べ、必ず誰かに行き先を伝えておくことが重要です。
実は科学者たちの「実験場」だった驚きの真実
エクラン国立公園には、一般の観光客にはあまり知られていない秘密があります。実はここは氷河研究の世界的な拠点なのです。公園内の氷河には数多くの観測機器が設置されており、地球温暖化の影響を測定する重要なデータを提供し続けています。
ラ・ベラルドの村で出会ったフランス国立科学研究センターの研究員、マリーさんによると、「エクランの氷河は過去30年で約40%も縮小している」とのこと。彼女が見せてくれた1990年と現在の写真を比較すると、その変化の激しさに愕然とします。観光で美しい景色を楽しみながら、同時に地球環境の現実を目の当たりにする複雑な体験でした。
最後に残る「本物の静寂」を体験できる場所
エクラン国立公園で最も印象深かったのは、実は音のない世界でした。標高2500m地点のオレアック湖畔でテントを張った夜、車のエンジン音も人の話し声も、文明の音が一切聞こえない静寂に包まれました。
最初は不安になるほどの静けさでしたが、耳を澄ませていると徐々に自然の音が聞こえてきます。風が岩を撫でる音、遠くで氷河が軋む音、小さな虫の羽音。現代社会では決して体験できない「本当の静寂」がここにはあります。
公園内にはシャレ・デュ・セレ、ル・カスタイユなど10ヶ所以上の山小屋があり、1泊20~40ユーロで宿泊可能です。予約は必須で、6月から9月の営業期間中は特に混雑するため、2ヶ月前までの予約をおすすめします。
パリの喧騒から逃れ、本物の自然と向き合いたい方には、エクラン国立公園は間違いなく人生を変える体験を提供してくれるでしょう。ただし、ここは決して「お手軽な観光地」ではありません。それなりの準備と覚悟を持って臨んでこそ、この公園の真価を味わうことができるのです。