なぜマッターホルンは「殺人者の山」と呼ばれるのか?
標高4,478メートルのマッターホルンは、見た目の美しさに騙されてはいけません。この山は初登頂以来、500人以上の命を奪い続けています。私も2019年夏、ヘルンリ稜ルートで遭難しかけた一人です。
スイス・ツェルマットとイタリア・チェルヴィニアの国境にそびえるこの山は、技術的難易度こそエベレストほどではないものの、落石、天候急変、ルートファインディングミスが組み合わさると一瞬で死の罠に変わります。特に標高3,260メートルのヘルンリ小屋から山頂までの最後の1,200メートルが鬼門です。
年間登山者数は約3,000人。しかし成功率は約50%。つまり半数は途中で引き返すか、最悪の場合は帰らぬ人となるのです。
登山ルートは本当にヘルンリ稜一択なのか?
多くのガイドブックは「ヘルンリ稜(Hörnli Ridge)が最も一般的」と書きますが、これは大きな誤解です。実際には4つの主要ルートがあり、それぞれ全く異なる技術と体力を要求します。
ヘルンリ稜(北東稜)は確かに最も登られているルートですが、固定ロープとチェーンに頼る箇所が多く、渋滞が発生します。私が体験した午前6時の「ソルベイ小屋渋滞」では、30分間身動きが取れず、体温が急激に下がりました。
意外に知られていないのがイタリア稜(Lion Ridge)です。チェルヴィニア側からアプローチするこのルートは、ヘルンリ稜より技術的に困難ですが、混雑が少なく、実は成功率が高いのです。ただし、ガイド料金は約15万円とヘルンリ稜の約10万円より高額になります。
知られざる「フランス側北壁」の恐怖
マニアックな話をすると、1865年の初登頂パーティーが下山に使ったマッターホルン北壁(フランス側)は現在でも最難関ルートの一つです。ここで4名が滑落死した「初登頂の悲劇」は、現在でもこのルートの危険性を物語っています。
装備選びで命運が分かれる?私の失敗談
「アイゼンは12本爪じゃなくて軽量な10本爪でいいや」この判断が、私を死の淵に追いやりました。標高4,200メートル付近で氷化した岩場を通過する際、前爪の食い込みが甘く、約3メートル滑落。幸いロープが効いて命は助かりましたが、肋骨を1本骨折しました。
必須装備は想像以上に重要です。ハーネス、ヘルメット、12本爪アイゼン、ピッケル、ヘッドランプ(予備含む)、防寒着、そして意外と忘れがちなサングラス。標高4,000メートルの紫外線で雪盲になれば、即座に遭難確定です。
ツェルマットのBayard Sport & Mode(営業時間:8:30-19:00)では登山装備のレンタルが可能ですが、靴だけは必ず事前にフィッティングしてください。現地調達した登山靴で水膨れを作り、敗退した登山者を何度も見ています。
山小屋の予約戦争、知っておくべき裏事情
ヘルンリ小屋(Hörnlihütte)の予約は毎年1月1日午前0時にオンライン開始されますが、人気日程は5分以内に完売します。しかし、ここに裏技があります。
小屋の管理人に直接電話すれば、キャンセル待ちの優先順位を上げてもらえる場合があります。番号は+41 27 967 2664。ドイツ語か英語での対応ですが、「I climbed Mont Blanc last year」など具体的な登山経験を伝えると信頼度が上がります。
宿泊費は1泊約80スイスフラン(朝食付き)、夕食は別途35スイスフラン。高額ですが、標高3,260メートルでの温かい食事の価値は計り知れません。特にバターたっぷりのポテト料理は、翌日の登山に必要なカロリーを効率よく摂取できます。
混雑回避の秘密:平日狙いの戦略
週末の小屋は戦場です。しかし平日、特に火曜日と水曜日は比較的空いています。社会人には厳しいスケジュールですが、命の安全を考えれば価値のある投資です。
下山こそが本当の地獄だった理由
多くの登山者が「登頂=成功」と考えがちですが、マッターホルンでは下山時の事故が全体の70%を占めます。私も山頂からの下山で本当の恐怖を味わいました。
午後2時に山頂到達。記念撮影を済ませ、達成感に浸っていた時、ガイドが血相を変えて「すぐ下山しろ!」と叫びました。西の空に黒い雲が猛スピードで接近していたのです。
標高4,200メートルの「肩」と呼ばれる地点で雷雨に遭遇。岩場に金属製のピッケルを持った状態で雷に打たれるリスクは想像を絶します。私たちは30分間、岩陰で身を寄せ合いながら嵐が過ぎるのを待ちました。体感温度はマイナス10度以下。指先の感覚が完全になくなり、カラビナの操作すらままなりません。
落石地獄の「死の回廊」
午後になると、日光で温められた岩が緩み、ソルベイ小屋からヘルンリ小屋間で落石が頻発します。野球ボール大の石が時速100キロで降ってくる中を駆け抜けるのは、まさに命がけです。ヘルメットをしていても、直撃すれば確実に意識を失います。
私の前を歩いていた登山者が手のひら大の落石を右肩に受け、うずくまりました。幸い骨折はありませんでしたが、ザックが完全に破れ、中身が散乱。このような光景を目の当たりにすると、マッターホルンが「優しい山」ではないことを痛感します。
それでもマッターホルンに挑戦する価値とは?
死と隣り合わせの体験を経て、なぜ私がマッターホルン登山を後悔していないのか。それは人生観が根本的に変わる体験だからです。
標高4,478メートルの山頂から見下ろすアルプスの大パノラマは、言葉では表現できません。モンブラン、アイガー、ユングフラウ、そして遥か彼方のイタリア平原まで一望できる360度の絶景。この瞬間のために、多くの登山者が命をかけるのです。
しかし本当の価値は景色ではありません。極限状態で下した判断、仲間との信頼関係、そして「生きて帰る」ことへの強烈な執着。これらの体験は、日常生活における些細な問題を笑い飛ばせる強さをくれました。
登山後の人生への影響
マッターホルン下山から3年が経った今、会社でのストレスや人間関係の悩みが以前ほど深刻に感じられません。「死にかけた経験」があるからこそ、「今日生きていることの奇跡」を実感できるのです。
また、綿密な計画立案と危機管理能力が飛躍的に向上しました。仕事でも「最悪のケースを想定した準備」が習慣化し、周囲から信頼されるようになりました。
これから挑戦する人へのリアルなアドバイス
最後に、マッターホルン登山を検討している方へ。まずモンブラン(4,807m)またはモンテローザ(4,634m)での経験を積んでください。4,000メートル級の高度順応と岩稜歩行技術は必須です。
体力面では、月間走行距離100キロ以上を6ヶ月継続し、週1回は15キロ以上のザックを背負った山歩きを行ってください。ジムでの筋力トレーニングより、実際の山での持久力向上が重要です。
費用は総額約50万円(航空券、宿泊、ガイド料、装備含む)を覚悟してください。安全をケチった結果、命を落とすリスクを考えれば、決して高い買い物ではありません。
そして最も大切なこと:引き返す勇気を持ってください。天候が悪化したら、体調に異変を感じたら、迷わず下山する。この判断ができる人だけが、マッターホルンから生きて帰れるのです。
山は逃げません。しかし命は一度失えば二度と戻りません。この原則を胸に刻んで、アルプスの女王に挑戦してください。きっと、人生を変える体験があなたを待っています。