なぜ私はマナスルに挑もうと思ったのか?
標高8,163メートル。ネパールにそびえ立つマナスルは、世界14座の8,000メートル峰の中でも特別な存在です。サンスクリット語で「精霊の山」を意味するこの山は、1956年に日本の今西壽雄隊長率いる登山隊が世界初登頂を果たした、まさに日本人にとって特別な山なのです。
私がマナスルに魅力を感じたのは、その美しいピラミッド型の山容もありますが、何より日本人として初の8,000メートル峰登頂という歴史的意義でした。しかし、実際に挑戦してみると、この山の真の姿は想像を遥かに超える厳しさを持っていたのです。
準備段階で知った意外な事実とは?
カトマンズから陸路でソティコーラまで約8時間、そこから登山口のサマガオンまでは徒歩で8日間。マナスル登山の許可費用は春季(3-5月)で1,800ドル、秋季(9-11月)で1,000ドルと、エベレストの約半額です。
しかし準備段階で驚いたのは、マナスルが「雪崩の女神」と呼ばれている理由でした。統計を調べると、マナスルの死亡率は約6.5%と、エベレストの約1.6%を大きく上回っているのです。特に標高7,000メートル付近では、予測困難な雪崩が頻発します。
地元のシェルパたちは「マナスルは機嫌が悪い時が多い」と表現します。実際、2012年には雪崩で11名が犠牲になる大惨事も発生しており、美しい外見とは裏腹に、極めて技術的で危険な山であることを痛感しました。
ベースキャンプまでの道のりで見えた現実
標高4,800メートルのマナスル・ベースキャンプに到着するまでの道のりで、この山の特殊性を実感しました。アクセスルートの一部はマナスル・トレッキング・サーキットと呼ばれ、通常のトレッカーも歩く美しいコースですが、登山者が通る上部ルートは全く異なる世界でした。
ベースキャンプの設営期間は通常4月下旬から5月上旬、そして9月中旬から10月下旬に限定されます。私が参加した春季遠征では、4月の時点でも気温は夜間マイナス20度を下回り、強風が吹き荒れていました。
ここで地元ガイドから聞いた興味深い話があります。マナスルは地質学的に比較的新しい山で、岩盤が不安定な箇所が多いのです。そのため、固定ロープの設置作業は他の8,000メートル峰よりも複雑で、シェルパたちの技術と経験が特に重要になります。
高所順応で直面した予想外の困難
キャンプ1(標高5,700メートル)、キャンプ2(6,400メートル)、キャンプ3(6,800メートル)、そしてキャンプ4(7,450メートル)へと段階的に高度を上げていく過程で、マナスル特有の困難に直面しました。
最も印象的だったのはキャンプ2からキャンプ3への区間です。ここは「セラックの迷路」と呼ばれ、氷河の割れ目と氷塊が複雑に入り組んでいます。ルートが日々変化するため、毎朝シェルパたちがルートファインディングを行い、時には大幅な迂回を余儀なくされます。
高所順応の過程で、私は軽度の高山病症状に加えて、予期していなかった問題に直面しました。マナスルは他の8,000メートル峰と比較して風が強く、体感温度が実際の気温よりもはるかに低くなるのです。防寒対策を万全にしていたつもりでしたが、手指の感覚を失いかける場面が何度もありました。
アタック当日、遭難寸前の体験
頂上アタックは通常、キャンプ4から深夜12時頃に開始します。私たちのチームは5月15日の午前0時に出発しましたが、標高7,800メートル付近で予想外の事態に遭遇しました。
突然の強風と視界不良により、ルートを見失ったのです。GPSはあるものの、雪崩の危険性を考慮すると安易にルートを外れることはできません。リーダーの判断で約2時間待機しましたが、天候回復の兆しが見えず、頂上まで残り400メートルの地点で断念することになりました。
この判断は正解でした。後から聞いた話では、同日に頂上を目指した他のチームの一人が軽度の凍傷を負い、救助が必要になったからです。マナスルの厳しさは、最後の最後まで登山者を試し続けるのです。
下山後に感じた「雪崩の女神」の真意
頂上には届きませんでしたが、マナスル登山を通じて得たものは計り知れません。この山は技術的な困難さもさることながら、登山者の精神力と判断力を極限まで試します。
興味深いのは、下山後にベースキャンプで出会った日本の研究者から聞いた話です。マナスルの名前の由来となった「マナサ」という言葉は、単に「精霊」ではなく、「心の力」「精神の強さ」を意味するサンスクリット語だったのです。
地元の人々は古くから、この山は登山者の心を試し、真の強さを持つ者にのみその姿を許すと信じてきました。私が頂上を踏めなかったのも、きっとまだ「心の準備」が足りなかったのでしょう。
マナスル登山を振り返って知っておくべきこと
マナスル登山には最低でも45日から60日の期間が必要です。費用は装備込みで総額400万円から600万円程度を見込んでおく必要があります。登山許可証の取得にはネパール政府観光局への申請が必要で、経験豊富なエクスペディション会社を通すのが一般的です。
技術的には、アイゼンワーク、ロープワーク、そして何より雪崩地帯での判断力が要求されます。事前に他の6,000メートル級の山での経験を積むことを強く推奨します。私自身、チョ・オユー(8,188メートル)での経験があったにも関わらず、マナスル特有の困難に苦戦しました。
最後に、マナスルは単なる登山の対象ではありません。日本の登山史において特別な意味を持つこの山は、挑戦する者の心と向き合わせてくれる、真の意味での「精霊の山」なのです。いつか再挑戦する時は、技術だけでなく、心の準備も万全にして臨みたいと思います。