なぜカイラス山は「登ってはいけない山」なのか?
チベット西部に聳え立つカイラス山(標高6,638メートル)は、世界で最も神聖視される山の一つでありながら、人類が一度も登頂に成功していない謎の山です。ヒンドゥー教、仏教、ボン教、ジャイナ教の聖地として崇められ、現在でも中国政府によって登山が完全に禁止されています。
この山の特異性は、その完璧すぎる四角錐の形状にあります。自然にできたとは思えないほど幾何学的で、まるで人工的に造られたピラミッドのよう。地元の人々が「神の住む山」と呼ぶ理由が、実際に目にすると痛いほど分かります。
カイラス山観光の拠点となるのは、ラサから車で約2日かけて到着するダルチェンという小さな町。ここから山を一周する巡礼路「コラ」が始まります。この巡礼路を歩くことこそが、カイラス山観光の本質なのです。
高山病で倒れる観光客が続出する理由とは?
カイラス山巡礼で最も恐ろしいのは高山病です。ダルチェンの標高は4,560メートル、巡礼路の最高地点ドルマ・ラ峠は5,630メートル。富士山頂より1,000メートル以上も高い場所を、3日間かけて52キロメートル歩くのです。
私が目撃したのは、到着初日から激しい頭痛と嘔吐に襲われ、巡礼を断念する観光客の姿でした。最低でも1週間前からラサで高度順応することが絶対条件ですが、それでも体調を崩す人は後を絶ちません。
特に危険なのは夜間です。ダルチェンでも夜間の気温は氷点下20度近くまで下がり、酸素濃度は平地の60%程度。宿泊施設も限られており、1泊100元(約1,500円)程度のゲストハウスがほとんどで、暖房設備は期待できません。
現地のチベット人ガイドが教えてくれたのは「山が拒んでいる人は絶対に無理をしてはいけない」という言葉。実際に、体調不良で引き返す観光客を何人も見送りました。
巡礼路で出会った「五体投地」の衝撃的光景
カイラス山巡礼路で最も印象的なのは、五体投地という巡礼方法です。これは体全体を地面に伏せて祈りを捧げ、立ち上がってまた数歩進んで再び五体投地を繰り返す巡礼方法。通常3日で歩く52キロの道のりを、この方法で進むと3週間から1ヶ月かかります。
私が出会ったチベット人巡礼者は、カム地方から1年かけてここまで五体投地で旅してきたと言いました。手には厚い革の手袋、膝には特製のプロテクターを装着し、額には五体投地を繰り返した跡の黒いタコができていました。
彼らの多くは「人生で一度だけ」の巡礼として、全財産を使い果たしてここまでやってきます。巡礼路沿いには簡素な茶店が点在し、バター茶1杯5元(約75円)、チベット麺(トゥクパ)1杯15元(約225円)程度で食事ができますが、巡礼者たちは持参した乾燥ヤクの肉と麦焦がしだけで何日も過ごしていました。
観光客として歩く私たちとは明らかに違う、生死をかけた真剣さがそこにはありました。
マナサロワル湖で体験した「聖水」の真実
カイラス山の麓に広がるマナサロワル湖は、標高4,590メートルにある聖なる湖です。ヒンドゥー教では「意識の湖」と呼ばれ、この湖で沐浴すると罪が清められると信じられています。
しかし現実は想像以上に過酷でした。湖水温度は真夏でも10度以下、強烈な紫外線が水面で反射して肌を刺します。それでも巡礼者たちは躊躇なく湖に入り、聖水を額に付けて祈りを捧げていました。
興味深いのは、この湖の水質の特殊性です。標高4,500メートルを超える高地にありながら、湖水は完全に透明で、深度30メートル先まで見通せます。地元の人々が「神の涙」と呼ぶ理由が分かる、信じられないほど美しい光景でした。
湖畔にはチュウ・ゴンパという小さな僧院があり、僧侶たちが湖の聖水を小瓶に入れて販売しています(1瓶20元、約300円)。ただし、この聖水は外国人観光客が国外に持ち出すことは禁止されているため、現地での使用に留めておく必要があります。
想像を絶する「天空の厳しさ」と向き合う覚悟
カイラス山観光で最も心に残ったのは、自然の圧倒的な力の前での人間の無力さでした。巡礼2日目の早朝、突然の猛吹雪に見舞われ、視界が10メートル先も見えなくなったのです。気温は瞬く間にマイナス30度まで下がり、同行していた観光客の一人が軽度の凍傷を負いました。
この時、現地ガイドが教えてくれた重要な事実があります。カイラス山では年間を通じて観光可能な期間がわずか5月から9月までしかなく、それ以外の時期は雪と氷に閉ざされて完全に立ち入り禁止になります。しかも、その5ヶ月間でも天候は予測不可能で、夏でも雪嵐に遭う可能性が高いのです。
巡礼路には携帯電話の電波は一切届かず、GPS機器も高度と寒さで機能停止することがあります。完全に自然と自分だけの世界。まさに現代文明から切り離された聖域でした。
知られざるカイラス山の「科学的謎」
一般的には語られませんが、カイラス山には科学者たちも首をかしげる不可解な現象があります。この山の周辺ではコンパスが正常に作動しないことが知られており、地磁気に異常があると考えられています。また、山頂付近には年間を通じて雲がまとわりつき、衛星写真でも山頂部分がはっきりと撮影できないことが多いのです。
さらに興味深いのは、カイラス山から等距離にある世界の主要なピラミッドや巨石建造物との位置関係。エジプトのギザのピラミッド、イースター島のモアイ、ストーンヘンジなどが、すべてカイラス山を中心とした特定の角度で配置されているという説もあり、一部の研究者の間で議論が続いています。
帰路で痛感した「日常への感謝」
3日間の巡礼を終えてダルチェンに戻った時、私は初めて「普通に息ができる」ことの有り難さを実感しました。標高4,000メートル台でも、巡礼路の5,600メートルを経験した後では天国のように感じられたのです。
カイラス山観光は、単なる観光ではありません。自分の限界と向き合い、自然の前での人間の小ささを痛感し、日常生活の当たり前の幸せに気づかされる、人生観を変える体験です。体力的・精神的な準備を万全にし、現地の文化と信仰に敬意を払って臨めば、きっとかけがえのない体験が待っているはずです。
ただし、この山は観光客を拒む聖域でもあります。軽い気持ちで挑戦すべき場所ではないことを、最後にお伝えしておきます。