湖水地方への憧れが一転、現実の洗礼を受けた初日
イングランド北西部のレイク・ディストリクト国立公園。日本人にとって「湖水地方」という響きは、どこか上品で美しいイメージを抱かせます。私も例外ではありませんでした。ところが、マンチェスター空港から車で約2時間かけてようやく到着した初日、いきなり現実の洗礼を受けることになったのです。
まず驚いたのは、想像していた「のどかな田園風景」とは程遠い、予想以上に険しい山岳地帯だったこと。ウィンダミア湖周辺でさえ、急な坂道と狭い一方通行の道路に四苦八苦しました。しかも10月の夕方4時にはもう薄暗くなり始め、霧まで出てきて道に迷ってしまったのです。
迷子になって発見した、観光客が知らない地元の世界
GPS頼みで走っていたはずが、携帯の電波が途切れがちになり、気がつくと見たことのない小さな村の中にいました。グラスミア村を目指していたはずなのに、地図にない細い道を走り続けていたのです。
困り果てて立ち寄った小さなパブ「The Punch Bowl Inn」で、地元のおじいさんに道を尋ねました。すると彼は「観光地なんかより、もっといい場所を教えてあげる」と言って、手書きの地図を描いてくれたのです。その時初めて知ったのは、観光客向けのルートとは全く違う、地元の人だけが知る美しい景色のポイントがいくつもあることでした。
実はレイク・ディストリクトには、メジャーな16の湖以外にも、名前すらついていない小さな池や沼が200以上もあるのだそうです。観光バスでは絶対に行けない、徒歩でしかアクセスできない隠れた絶景ポイントが無数に存在するのです。
ワーズワースが愛した風景、でも本当はここが一番好きだった?
翌日、詩人ウィリアム・ワーズワースの生家があるコッカーマスを訪れました。入場料は大人8ポンド(約1,400円)で、開館時間は午前10時から午後5時まで。ここは観光地として整備されていますが、実際に足を運んで分かったのは、ワーズワース自身が最も愛していた場所は、観光地として有名な場所ではなかったということです。
地元のガイドさんが教えてくれたのは、ワーズワースが毎朝散歩していたというライダル・ウォーター湖畔の小さな小道。ここは観光バスのルートに入っていないため、ほとんど観光客がいません。午前6時頃に歩くと、湖面に映る山々と朝霧が作り出す幻想的な光景に出会えます。
この小道を歩いていると、200年前の詩人と同じ景色を見ているという不思議な感覚に包まれます。観光地化されていない分、当時のままの自然が残っているのです。
「美しすぎて怖い」地元の人が語る湖水地方の別の顔
3日目、天候が急変しました。朝は穏やかだった天気が、午後には激しい雨と風に変わったのです。これこそが、地元の人たちが口を揃えて言う「レイク・ディストリクトの本当の顔」でした。
年間降水量が2,000mmを超えるこの地域では、1日のうちに何度も天気が変わることは珍しくありません。特に山間部では、晴れていたのに急に濃霧に包まれて視界が数メートルになることもあります。実際、毎年山岳救助隊が出動する件数は400件を超えるそうです。
地元のB&Bのオーナーは「美しい景色には必ず危険が隣り合わせにある。それがこの土地の宿命よ」と話してくれました。確かに、湖の美しさに見とれているうちに、気象条件が急変して身動きが取れなくなる観光客は少なくないのだとか。
本当に美味しいものは観光地にはない?地元民推薦グルメの真実
観光ガイドブックには必ず載っているグラスミア・ジンジャーブレッド。確かに伝統的なお菓子ではありますが、地元の人に「一番美味しい食べ物は何?」と聞くと、まったく違う答えが返ってきました。
「カンバーランド・ソーセージを食べないなんて、レイク・ディストリクトに来た意味がない」と言われ、観光地から離れた小さな村のソーセージ工房を紹介されました。そこで食べた手作りソーセージは、観光地のパブで食べるものとは比べ物にならない美味しさでした。
また、湖で捕れるチャーという魚も地元の隠れた名物です。サーモンに似た味わいですが、この地域特有の冷たく澄んだ湖水で育つため、独特の上品な味がします。ただし、観光地のレストランではほとんど提供されていません。地元の漁師から直接購入するか、知る人ぞ知る小さな食堂でしか味わえない幻の味なのです。
結局、一番の思い出は計画にはなかった「失敗」だった
最終日、当初の予定ではスカフェル・パイク(イングランド最高峰978m)に登る予定でした。ところが前日の雨で登山道が滑りやすくなり、安全を考えて断念することに。代わりに、宿のオーナーが「せっかくだから」と提案してくれたのが、ヘルヴェリン山の麓にある小さな廃墟の教会跡を訪ねることでした。
そこは観光地図にも載っていない、地元の人でさえほとんど訪れない場所。12世紀に建てられた教会の石組みだけが残り、周囲には羊たちがのんびりと草を食んでいました。特別な絶景があるわけでもなく、歴史的価値が高いわけでもない。でも、なぜかそこで過ごした1時間が、今回の旅で最も印象深い時間になったのです。
レイク・ディストリクト攻略の現実的なアドバイス
実際に体験して分かった、本当に役立つ情報をお伝えします。まず交通手段ですが、レンタカーは必須です。公共交通機関もありますが、本当に美しい場所へのアクセスは困難です。ただし、村の中心部は駐車場が極端に少ないため、朝8時前には目的地に着くつもりで計画を立てましょう。
宿泊はB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト)が断然おすすめ。1泊60-80ポンド程度で、オーナーから地元の生きた情報を教えてもらえます。ホテルでは絶対に得られない、貴重な体験につながります。
天候対策も重要です。防水性の高いジャケットと登山靴は必携。晴れ予報でも必ず雨具を持参してください。また、携帯電話の電波が届かないエリアも多いため、オフラインでも使える地図アプリをダウンロードしておくことをお勧めします。
「完璧な旅」より「予想外の出会い」を大切に
レイク・ディストリクト国立公園は、計画通りに回る観光地ではありません。むしろ、計画が狂った時にこそ、本当の魅力に出会えるのだと実感しました。迷子になったからこそ出会えた地元の人々、悪天候だからこそ見えた湖の違う表情、予定変更で訪れた何でもない場所での特別な時間。
観光パンフレットに載っている「見るべき16の湖」を全部回るより、ひとつの湖で地元の人と話し込む方が、きっと心に残る旅になるはずです。英語に自信がなくても大丈夫。湖水地方の人々は、驚くほど親切で忍耐強く、ゆっくりと話してくれます。
この美しい国立公園は、急がずゆっくりと、そして心を開いて向き合うことで、きっと一生忘れられない体験を与えてくれるでしょう。完璧を求めず、予想外を楽しむ。それがレイク・ディストリクトを心から楽しむ秘訣なのかもしれません。